戊辰戦争150年~白河・会津若松の旅~(上)

今年は1868年の明治元年から150周年にあたり、明治維新150周年の記念行事が各地で催されています。しかし、同じ年に起きた戊辰戦争で敗れた奥州越列藩同盟の諸藩ゆかりの地域からみれば、薩長主体の新政府から受けた屈辱の歴史を思い起こす年でもあります。なかでも新政府軍からの攻撃で落城、転封の憂き目にあった会津藩ゆかりの福島県会津地方の思いは、ことしを「戊辰150周年」として観光につなげようとする商魂とは別に、根深いものがあるように思えます。そこで、日本記者クラブが企画した「戊辰戦争150年プレスツアー」に参加して、白河・会津若松を回り、あらためて戊辰戦争150年を考えてみました。

白河口の戦い

ツアーの最初に訪れたのが福島県中通り地方の南に位置する白河市です。ここで、東北における戊辰戦争の緒戦ともいえる「白河の戦い」があり、新政府軍は、会津藩を中心とする旧幕府軍(奥州越列藩同盟軍)を破り、戦いは会津藩の本拠地である若松に移ります。もともと白河を治めていたのは白河藩で、寛政の改革を主導した3代藩主の松平定信が有名です。戊辰戦争のときには、藩主だった老中の阿部正外が罷免され、国替えになった直後で、白河藩はなくなり、幕府直轄の天領となっていました。そこで、まず会津藩が白河藩の本拠地である小峰城(白河城)を占拠したのですが、ほどなく新政府軍はこの城を奪われました。JR白川駅の前に建つ優雅な小峰城(写真)は、戊辰戦争で焼失したのを1991年に復元されたものです。

この白河の戦いで、もっとも激戦となったのは、小峰城の南にある稲荷山での戦闘でした。新政府軍が攻撃を始めた最初に日だけでも旧幕府軍は700名近い戦死者を出したそうですが、新政府軍の死者は20名足らずだったとか。「新政府軍は射程の長いアームストロング砲などの火器でまさったうえ、鳥羽伏見の戦いからの東征の過程で取得した戦術や戦闘能力で、旧幕府軍を圧倒しました」と、小峰城や稲荷山の案内をしていただいた『白河大戦争』の著者、白川悠紀さんは語っていました。

薩英戦争(1863年)や馬関戦争(1864年)で、攘夷の限界と西欧の火器の威力を学んだ薩摩や長州を主体とする新政府軍は、戊辰戦争では、英国などから輸入した最新鋭の火器で旧幕府軍を圧倒しました。旧幕府軍でも長岡藩のように、最新鋭の機関銃だったガトリング砲などを装備したところもありましたが、旧幕府軍は、軍備で新政府軍に劣っていたようです。英アームストロング砲の開発が1855年、米ガトリング砲の発明が1861年、スナイドル銃の製品化は1863年、「八重の桜」の山本八重が使ったといわれるスペンサー銃の開発が1860年などと、最新兵器の開発された時期は幕末と重なっています。軍備でも、時代の変化にいちはやく対応できたところが勝者になったということでしょう。

斎藤善次右衛門

このツアーに携帯した小冊子があります。宮城県石巻市の郷土史家である阿部和夫さんが書いた『戊辰戦争150年 宮城・中津山の侍たち 北越戦争』(三陸河北新報社)で、石巻圏を販路とする「石巻かほく」に阿部さんが連載した記事をまとめたものです。石巻から戊辰戦争に加わった人たちのことを書いているのですが、そのなかに、「前谷地『斎善』の8代目の当主善次右衛門も出陣し、白河で戦死してしまいます」という記述があり、斎藤善次右衛門との“縁”を思い出しました。

私が2008年から3年間、朝日新聞石巻支局長として勤務していたときに、斎藤善治次右衛門が戊辰戦争に先立って仙台藩に1万両の献金を約束した遺墨と仙台藩の先遣隊として出陣したときに、陣中から子どもにあてた書状を私が入手し、それらを石巻市に寄託しているという縁です。東日本大震災の津波で、収蔵されていた石巻文化センターも被災したので、流出したのではないかと思っていたのですが、最近、石巻市教育委員会より連絡があり、旧湊小で仮保管されていることがわかりました。斎藤家は豪農で知られ、戦前は山形の本間家、秋田の池田家と並ぶ東北の3大地主で、明治以前は、仙台藩にたびたび寄進したことなどから天保年間に郷士となりました。

あらためて、書状には何が書かれていたのか、1968年に編纂された『斎藤善次右衛門伝』(財団法人斎藤報恩会)をひらくと、仙台藩が新政府の命を受けて会津征伐で出陣したときに、土湯口(現在の福島市土湯町)の陣中で書いたもので、会津藩との戦闘の模様などを伝えていました。「陣中生活を微細にわたって綴り、一子の養之助(九代)に教訓として垂れている点がうかがわれる」と、同書は手紙の内容を要約しています。

善次右衛門は、仙台藩が会津討伐から会津と同盟を組むことになると、そのまま会津に残り、白河口の戦いに加わり、稲荷山を中心に激戦となった日の白河城下での市街戦で、腹部に被弾、翌日の未明に死亡しました。42歳でした。白河の史跡をみると、「仙台斎藤善治(ママ)右衛門供養」という供養碑があり、新政府軍が旧幕府軍の遺体の埋葬やや慰霊を禁じていたといわれているので、どういういきさつで建立されたのか疑問があったのですが、上記の本でその疑問が解消されました。

善次右衛門は7人の従者を連れていて、生き残ったふたりが軍刀や遺髪を携えて帰郷、戦闘の様子などを詳しく報告していました。それによると、白河城下は新政府軍に制圧され、善次右衛門は旧幕府軍に味方した民家の土蔵に隠れていたところ、近くの高橋常吉という町民が自分の隠居所にかくまったそうです。その縁で、高橋家が自分の墓所に善次右衛門の供養塔を建てたとのこと、供養塔には、戦闘で亡くなった3人の従者の名前も刻まれています。戊辰戦争の直後は、旧幕府軍の死者に対して「鎮魂」という言葉は使えず、「戦死」という言葉を使ったようです。したがって、この供養塔も明治の初期に建てられたのだと想像されます。ツアーでは、稲荷山のふもとにある会津藩の「戦死墓」(写真)にお参りをしましたが、善次右衛門の供養塔については、その存在を知らなかったので、行けませんでした。宿題が残りました。

仙台の郷土史家である木村紀夫さんが2015年に著した大著『仙台藩の戊辰戦争』のなかの「人物録」では、善次右衛門について、次のように人物像を紹介しています。

「戊辰戦争で国難の急迫を知り、藩主に軍用金として一万両の無志願献上納を出願した。さらに自らが銃後にあるのを潔しとせず第一線の先鋒隊員を願い出て、…(中略)…。有為の人材で勇気と行動に徹した愛国者であった」

蘇る「仁」のこころ

戊辰戦争150年を記念して白河市がつくったテーマフレーズは、「蘇る『仁』のこころ」(写真)です。会津若松市がつくったフレーズは「現代に語り継ぐ、会津の『義』」で、「仁義」をこの2市で分け合ったのかと思いましたが、白河市の「仁」は「白河戊辰戦争の戦死者を敵味方の分け隔てなく、今も手厚く弔っている『仁』の心を後世に伝えていく」という意味で、会津若松市の「義」に込めた「会津は『義に死するとも不義に生きず』」とは、戊辰戦争に対する温度差があるようです。戦争の当事者である会津若松市と、戦場になった白河市とでは、捉え方に違いがあるのは当然かもしれません。

白河市が分け隔てなく弔う象徴として見せているのが会津藩士の「戦死墓」と、墓所の通りを隔てた向かい側に建つ新政府軍側の「長州大垣藩戦死六名墓」で、新政府側にも「戦死」という言葉が使われるなど、分け隔てがないようです。2015年に稲荷山につくられた慰霊碑には約千人の「戦殉難者」の名前が刻まれていますが、ここでも、仙台藩、会津藩、長州藩など、両軍の戦死者の名が出ています。

敵味方分け隔てなく弔うというのは、戦争の勝者に対しては、たやすかったかもしれませんが、敗者に対しては、弔った人にも災禍が及ぶ危険もあり、たいへんな勇気を必要としたと思います。仙台藩士であった斎藤善次右衛門に対する白河の人々の対応をみると、「仁」の心だけではなく「勇」の心意気もあったのだと思います。

白河以北一山百文

東北地方の人々にとって、戊辰戦争と白河というと、白河口の戦いよりも、「白河以北一山百文」という言葉のほうが有名だと思います。戊辰戦争の勝った新政府軍が白河以北の土地は、ひとやまでも百文にしかならない荒地ばかりだという意味で語った言葉だと伝えられています。白河は、平安時代には「白河の関」があり、奥州への入り口となっていたところですから、白河以北といえば、東北全体を指しています。東北人が怒るのは当然で、仙台に本社を置く河北新報は、この言葉から新聞の名前を採り、「東北の振興」と「不覇独立」(ふきどくりつ)を社是にしてきたそうです。

河北新報の紙面には、ときどき、題号の由来が紹介されているので、私も知っていましたが、今回のツアーで、平民宰相といわれた原敬(1856~1921)にも関係している言葉であることを知りました。新幹線の新白河駅で出迎えていただいた鈴木和夫市長の話の中で、南部藩士の末裔だった原が「一山百文」という言葉から採った「一山」を号として用いていたと、語っていたからです。東北人にとって、「白河以北…」の言葉が自らを卑下しながらも、それに負けない反骨精神を示す言葉として焼き付いているのを示すエピソードでしょう。鈴木市長は、「戊辰戦争は、官軍と賊軍の争いではなく、意見の違いだけだった」と原敬の言葉を伝えていました。前掲の阿部和夫さんの『北越戦争』も、1917年に盛岡市で開かれた戊辰戦争殉難者50年祭の祭文に書かれた次のような原敬の言葉を紹介しています。

「顧みるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍の俗謡あり。その真相をかたるものなり」

この言葉に対する阿部さんのコメントを紹介して、ツアー前半の話を終えます。

「これ(原敬の祭文)は、戊辰戦争に敗れ、以後『白河以北一山百文』とさげすまれ、さまざまな意味で冷遇されてきた奥羽諸藩の末裔の人々の思いはもちろん、東北地方の人々の無念の思いを代弁するものだったと思います」

(2018.9.18 「情報屋台」)

プーチンが投げたウルトラ変化球

ロシアのウラジオストクで開かれていた東方経済フォーラムの記者会見で、プーチン大統領が突然、日本との間で、前提条件をつけずに年内に平和条約を結ぶことを、同席していた安倍首相の前で、提案しました。

第2次大戦後の戦後処理の過程で生まれた北方領土問題は、4島の返還を求める日本と、返還すれば日米安保条約のもとで米軍基地がそこにできることを恐れるロシアとの間で、膠着状態が続いています。2016年の日ロ首脳会談で合意した北方4島での「共同経済活動」も進展がないなかでの提案で、日本側は驚いているようです。

日ロ間で平和条約が結ばれていないということは、最終的な戦後処理が終わっていないということになります。とはいえ、1956年にソ連(現ロシア)との間で結ばれた日ソ共同宣言で、国交は回復されているため、両国間で残る戦後処理問題は領土問題と平和条約の締結であり、領土問題と平和条約の締結とはセットで考えられてきました。逆にいえば、領土問題が含まれない平和条約の締結は、これまでの経緯を考えれば、ほとんど意味がないということになります。

それを承知で、プーチン大統領がウルトラ変化球を投げてきた真意は何か、日本側が戸惑うのも当然で、ニュース映像で見ると、安倍首相は笑いで対応するしかなかったようです。振り返れば、安倍さんが主導した「共同経済活動」の狙いは、経済的な協力関係を深めたうえで、領土交渉が進展する土壌をつくることでしたから、平和条約も領土問題を解決する土壌をつくることになるかもしれません。しかし、プーチン大統領は、「あらゆる前提条件をつけないで」と語っているので、平和条約の締結が領土問題の進展につながる保証はないわけで、日本側がおいそれとこの提案に乗るわけにはいかないと思います。だから、プーチン大統領の平和条約への本気度が高いのであれば、今後、領土問題での譲歩をにおわせてくる可能性はあると思います。

プーチン大統領の狙いは何か、あらためて考えてみると、強固な日米関係にくさびを打つことだと思います。トランプ大統領の米国は、気候変動についてのパリ条約から離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)の見直し、TPP(環太平洋経済連携協定)からの離脱など、国際的な枠組みからはずれ、アメリカファーストの孤立主義的な傾向を強めています。米朝首脳会談も、朝鮮半島への米国の関与を弱める狙いとみることもできます。

トランプ大統領の考え方が、余計な出費までして同盟国を守る義理はない、ということであれば、日本が採るべき道のひとつは、独自の軍事力を強化して、「仮想敵国」であるロシアや中国との軍事バランスをとることになるでしょう。1951年に米国が戦後の日本占領を解いて日本の独立を認めると同時に結んだのが日米安保条約で、その目的はソ連を中心とする社会主義国から日本を守るということでしたが、その一方で、日米安保条約は、日本の軍備の膨張を防ぎ、日本の軍国主義化を防ぐという狙いもあるとされ、日米安保は日本の軍国主義化を押さえる「瓶のふた」ともいわれてきました。

トランプさんの狙いは、まさに瓶のふたをはずして、自分の国は自分で守れ、ということでしょうから、ソ連や中国も、瓶のふたが取れる日本への警戒心も出てきていると思います。日本に秋波を送り、日米同盟に裂け目を入れると同時に、日本が軍事力の増強に走らないように平和条約を締結する、というのはロシアの戦略的な判断かもしれません。中国の習近平政権がこのところ、日中関係の改善に傾いているのも、トランプ政権の動きをみてのことだと思います。そう考えると、プーチン大統領は、今後、4島か2島かという議論は別にして、何らかの返還と、米軍を含むその島の非軍事化という条件を出して、日米安保体制を揺さぶるという構図を頭のなかで描いているかもしれません。

トランプ大統領の出現によって、世界は「新しい秩序」の構築に向けて、いっせいに動き出しています。憲法改正と北方領土問題の解決によって、「戦後の総決算」を果たし、歴史に名を残すというのが安倍首相の思惑だと思いますが、後ろ向きになる米国をにらみながら、新しい世界秩序を東アジアでどう構築していくかという構想が煮詰まっているとは思えません。

たとえば、日ロ、日中の政治や経済などの友好関係を深めるのにあわせて、東アジア地域の軍拡ではなく軍縮を進める、という基本戦略をつくったうえで、ロシアや中国と向き合えば、相手から出される変化球にも柔軟に対応できるのではないか、と思います。もっと現実的な基本戦略があるのかもしれませんが、基本戦略がなければ、相手の変化球に惑わされて、空振りを繰り返すのではないかと思います。

(2018.9.13 「情報屋台」)

体操パワハラ疑惑に見るスポーツの構造問題

女子体操の宮川紗江選手の「告発」によって、体操界の重鎮ともいえる塚原光男・千恵子夫妻のパワハラ疑惑が浮上、夫妻の対応への批判が高まるなかで、夫妻が主宰してきた朝日生命体操クラブの存続問題まで取りざたされるようになりました。いろいろな問題が複雑に絡み合う今回の問題について、日本のスポーツ界の健全化という観点から考えてみたいと思います。

コーチへの処分は妥当だったのか

まず、今回の「騒動」のきっかけになった宮川選手に対する速見祐斗コーチの「暴力」問題です。選手とコーチとの間では、暴力は指導の一環で、体罰=愛の鞭という理解だったのでしょうが、体罰という名の暴力が許される時代ではありません。体罰や暴力の情報があれば、監督する団体や警察を含め関係する組織が積極的に調査・捜査し、暴力をふるった人間を罰するのは当然のことです。その点では、体操協会がコーチの暴力を調べて処分を下したことは正しい措置だったと思います。

とはいえ、処分には、それなりの調査と審議が不可欠で、さらにいえば、処分される側が納得し、反省や更生する機会を与えることも大事です。今回の処分では、処分を受けた速見コーチが地位保全の訴えを起こしたとのこと、あとで取り消したようですが、処分を納得させる、ということはできなかったようです。また、体罰を受けた宮川選手への事情聴取も十分ではなく、コーチを失う形となる宮川選手の不安を取り除くフォローも不十分だったようで、それが今回の記者会見の引き金になったと思います。

体操協会が今回設置する第三者委員会が処分の妥当性についても踏み込むのかどうかわかりませんが、処分には欠かせない暴力による身体的及び心理的な被害の事実認定が十分ではなく、処分後の加害コーチと被害選手へのフォローも不足しているなど、処分のやりかたは安易というしかなく、この処分を決めた協会全体の責任は免れないと思います。「塚原夫妻に押し切られた」という事情があるとしたら、それこそ協会全体のガバナンス(統治能力)が問われます。これは、「終身会長」を認めてきたボクシング協会と同じで、理事全体の責任です。

モグラ叩きで体罰はなくならない

暴力をふるった指導者が処罰されるのは当然ですが、それで、スポーツ界における体罰・暴力問題が根絶できるとは思えません。いまのスポーツ界の多くの指導者は、体罰で肉体と精神(根性)を鍛えながら育ってきています。体罰がダメだということは理解しているでしょうが、ではどうやって選手の自発的なやる気を出させるのか、という指導法が身に付いているとは思えないからです。

体罰はいけません、発覚すれば重い処分にするという通達をいくら出しても、体罰に代わる指導法を指導者に、ちゃんと身に付けさせない限り、指導者はその手立てがわからないまま指導するだけになってしまいます。その結果、選手の競技力が低下すれば、あせった指導者は、暴力とはみなされない暴力に走ることになります。実際、肉体的な暴力を加えなければいいという解釈は、言葉による暴力を助長しています。スポーツ教室でも、学校の部活動でも、練習場にしばらくいれば、たしかに肉体的な暴力とはいえないが、選手の人格否定という面では、心に傷を負わせるとい点では暴力以上にひどい指導が行われている場面をいくらでも目撃することができると思います。

どうすればいいのか、ひと言でいえば、「いじめて育てる」ではなく「ほめて育てる」という考え方に転換することです。しかし、指導者の多くは後者の実践例を知らずに育っているのですから、体罰のない指導を教科書や講義で学ぶのではなく、肉体が覚え込むには、スポーツ界あげての実践的な指導者教育が必要です。体罰が明るみに出れば処分するというモグラ叩き方式の対応では、体罰や言葉による暴力は繰り返されるでしょう。そればかりでなく、暴力問題がチームや選手の追い落としに利用される可能性があります。ライバルチームや選手を暴力スキャンダルでたたく、というのはスポーツ界の戦術のひとつになるかもしれません。今回の事件でも、暴力問題が引き抜きの道具に使われたと、宮川選手は主張しています。

スポーツ庁の鈴木大地長官は、スポーツ界で不祥事が相次いでいることを受けて、庁内にプロジェクトチームを設置するとしています。たしかに、スポーツ庁が主体的に体罰根絶のためのスポーツ指導に取り組まなければ、この問題は解決しませんし、こうした問題に早くから取り組んできた欧米から、日本は「スポーツ後進国」とみられている状況を改善することはできません。スポーツ庁もようやく腰を上げたという印象で、スポーツ界全体の課題だという認識がスポーツ庁には不十分だったと思います。

権力集中がパワハラの温床

宮川選手は、体操協会の女子強化本部長である塚原千恵子氏から、自分の言うことをきかないとオリンピックに出させない、という圧力を感じ、本部長の狙いは、宮川選手から速見コーチを引き離し、塚原さんの率いる朝日生命体操クラブに宮川選手を引き入れることだと思ったと、会見で述べていました。塚原本部長は、発言の意図はまったく違うと説明していますから、真偽のほどはわかりませんが、パワハラは、受けた側の「心証」が大きな要素となりますし、本部長がオリンピック選手の起用について大きな影響力を持っているのも確かですから、その意図に有無にかかわらず、パワハラと受け止められるような発言をしたということは事実として残るでしょう。

塚原本部長は、宮川選手との面談の際に同席した体操協会の塚原光男副会長との連名の「声明」で、「宮川選手の心を深く傷つけた」と謝罪していますが、パワハラについて認めているわけではありません。この問題は、第三者委員会がパワハラと認定するかどうかがひとつの判断基準になるでしょう。そこでパワハラと認知されれば、塚原強化本部長が職を辞すといった形で、責任を取ることになるのでしょう。しかし、これも体罰問題と同じで、そうしたモグラ叩きだけでは、問題解決にならないと思います。オリンピックなどの日本代表選手を決める監督や強化本部長といったパワーを持つ人間が特定のチームや個人と結びついていれば、利益相反というか、えこひいきの問題が残るからです。

女子レスリングでの栄和人氏による伊調馨選手へのパワハラ問題を思い出してください。栄氏は、日本レスリング協会の女子強化委員長であるとともに、女子レスリングの有力チームである中京女子大レスリング部の監督も兼ねていました。栄氏にとっては、有力選手を自分のチームに集めることで、指導がしやすい体制を整えたと思っていたかもしれませんが、選手の一極集中は、栄氏の権力集中を加速させ、栄氏に嫌われれば、レスリングの練習もできないという環境をつくることにもつながりました。これではレスリング選手全体のなかの切磋琢磨ではなく、特定のチーム内での競争にとどまってしまいます。

競技団体を運営する協会が協会自身で監督やコーチスタッフを雇うにはお金がかかりますし、監督らのその後の身分保障も考える必要があります。リオ・オリンピックの競技ごとに、監督の所属を見ていくと、協会の職員という身分の人もたくさんいました。これまでは、スポーツ競技団体の競技スタッフというと、別に本業がある人たちが多かったのですが、最近は、協会自身が監督やコーチなどのスタッフを抱えられるところもふえているということでしょう。その背景にあるのは、「サッカーくじ」によって、スポーツ界全体に資金的な余裕が生まれてきたことがあると思います。

オリンピック選手は国が育てる

スポーツ選手の育成でひとつの理想形は、ナショナルチームを恒常的に編成して、個別のクラブチームからは独立した監督やスタッフのもとで競技力を高める。そうした人材を育てる土壌として、ジュニアスポーツでもナショナルチーム的な仕組みもつくるという方式です。

日本でも、いろいろな競技で、そういう仕組みができつつある、ということでしょうが、それぞれの選手は個別のクラブで育ってきていますから、クラブスタッフとナショナルスタッフとの連携や協力だけでなく、個別クラブのスタッフをナショナルチームに参画させるなどの手立ても必要になるでしょう。水泳の松田丈志選手を「ビニールハウス」の練習場で育てた久世由美子さんは、松田選手への指導が評価され、日本代表チームのコーチにもなりました。今回の場合も、ナショナルチームの仕組みがちゃんとできていれば、クラブ移籍の勧誘疑惑などは生じなかったと思います。

日本の現状は、教育の一環であるはずの部活動やその先の実業団のような企業スポーツが盛んで、地域クラブで育った優秀な選手をナショナルチームで鍛える、という欧米の方式とは異なる仕組みになっています。そのことが、スポーツ選手の人間形成でも、学校のありかたでも、勝利至上主義がはびこり、日本の教育・スポーツをゆがめる結果になっています。スポーツ庁にとどまらず文科省全体がこの問題に取り組まなければならないことは、文科省が総合型地域スポーツクラブの育成に力を入れていることでもわかりますが、まだまだ学校や企業に依存する構造は変わっていません。オリンピック選手は国が育てる、という決意が必要だということです。

今回の事件を受けて、朝日生命という企業への苦情がふえているそうです。スポーツクラブのスポンサーに文句を言いたい、という気持ちは理解できますが、スポーツにお金を投じる企業が減っているなかで、そうした動きがますます企業のスポーツ離れを助長するのではないかと心配もします。

朝日生命体操クラブは、もともと実業団の企業スポーツとして発足した女子チームが母体となり、朝日生命がテニスやバレーボールなどの企業スポーツを縮小する過程で、塚原体操センターを受け皿にして、朝日生命が有力なスポンサーとなった経緯があります。地域主体のクラブチームが盛んになり、企業スポーツが縮小していくのは時代の流れともいえるし、そういう方向になってほしいと思います。しかし、地域主体のクラブといっても、企業が有力スポンサーになっているところは多く、朝日生命クラブも、選手やコーチが朝日生命の社員というわけではありません。「北の鉄人」と呼ばれた新日鉄釜石のラグビーチームは、いまは「釜石シーウェイブス」という地域のスポーツクラブとなっていますが、いまも新日鐵住金が有力なスポンサーとしてチームを支えています。

今回の事件で、スポーツクラブのスポンサーになる宣伝メリットに対して、リスクが大きすぎるという面が強調される事態になっていることは、所有から支援へという形で続いている企業スポーツ全体への悪影響を考えると、とても残念なことだと思います。

メディアへの注文

メディアにも注文があります。今回の問題がテレビのワイドショーで頻繁に取り上げられているのは、やむにやまれず告発にいたった女子選手を助けてあげたい、という多くの人々の心情を背景に、この「ニュース」が視聴率をそれなりに稼いでいるからでしょう。しかし、情緒的に取り上げるというテレビの体質から、宮川vs塚原問題ばかりに焦点をあて、塚原夫妻の言動を取り上げてはそれをたたく、というレベルにとどまっているように見えます。夫妻が辞任すると言うまで、メディアスクラムは続くのかもしれませんが、それだけなら、メディアは、モグラ叩きマシーンとしての機能は果たしてもスポーツ界全体の改善につなげるという意味で、社会的な役割としては不十分だと思います。一般紙の扱いは、情緒には流されないという意味で、冷静というか冷淡ですが、スポーツ界の構造問題として、もっと踏み込んでほしいと思います。

ところで、塚原夫妻が当初、「これでは言ったもん勝ちになる」などと、猛然と反発したと伝えられています。若い選手に「告発」された怒りもあるでしょうが、それよりも、「告発」後の流れが体操界における塚原夫妻の追い落としの動きだと感じたからということもあると想像します。告発の内容は「全部ウソ」と塚原副会長が語ったのを受けて、具志堅幸司副会長が「『うそ』と言ったのは残念」と塚原発言を批判しました。その通りだと思う一方で、日本的な組織のなかで、副会長が同僚の副会長の発言を批判することはきわめて異例だとも思いました。

もともと体操界では、日本体育大学を母体として同時期のオリンピックで活躍した塚原光男氏と監物永三氏とが日体大での職を争い、監物氏が日体大に残り、塚原氏が去った「しこり」が今も残っている、という「伝説」を耳にすることがあります。そういう昔話を聞くと、今回の問題に関して、メディアなどで発言して元体操選手がどこの大学の出身者なのか、げすの勘繰りで気になってきます。

「すべての膿を出す」と言った具志堅副会長の発言は、これもその通りですし、その発言は重いものだと思います。今回の体罰問題もパワハラ問題も、すべて日本のスポーツ界の構造と深くかかわっています。「すべての膿を出す」には、体操協会にとどまらず、文科省や日本オリンピック委員会なども含めたスポーツ界全体が取り組むべき課題がたくさんあると思います。

(2018.9.5「情報屋台」)