すべて王の臣

(「情報屋台」4月13日)
Humpty Dumpty sat on a wall,

Humpty Dumpty had a great fall.

All the king’s horses and all the king’s men

Couldn’t put Humpty together again.

ハンプティ・ダンプティが塀に座った

ハンプティ・ダンプティが落っこちた

王様の馬と家来の全部がかかっても

ハンプティを元に戻せなかった

英国の童謡「マザー・グーズ」の使われた「all the king’s men」という言葉は、ポピュリストの元祖といわれる米ルイジアナ州の政治家だったヒューイ・ロング(1893~1935)をモデルにしたロバート・ペン・ウォーレンの小説の題名(邦題は『すべて王の臣』)として使われ、ニクソン大統領を辞任に追い込んだワシントン・ポストの記者が書いた本の題名「All the president’s men」(邦題は『大統領の陰謀』)も、ここからとられています。

森友学園や加計学園をめぐる報道で、森友学園や加計学園の獣医学部を開校させるために、役人たちが形振り構わぬ仕方で動き回り、それらの「陰謀」が明るみに出ると、これまた形振り構わぬ仕方で隠ぺいをはかろうとする姿が浮かび出てきました。彼らのなかから、背任や偽証で罪に問われるひとが出てくるかもしれませんし、「記憶にある限り、会っていない」などと、苦しい答弁を続けた役人は、これからの人生をずっと、「苦し紛れの説明をした官僚」として過ごすことになるのでしょう。彼らの生きざまを見ながら、「すべて王の臣」という言葉を思い出しました。

森友学園の土地の値引きを正当化させるために、ゴミ撤去で、「トラック何千台も走った気がする、という言い方にしてはどうか」と、森友側に財務省が持ち掛けたことが報道で暴露されると、財務省の太田充理財局長は「大変恥ずかしいこと」と述べました。たしかに、森友や加計での役人の行動は、「恥ずかしいこと」のオンパレードになっています。そして、なぜ、そこまでするのか、と考えると、答えは、「すべて王の臣」という言葉に行き着くように思えます。

それにしても、「王」の威光にひれ伏して、「国民全体の奉仕者」(国家公務員法96条)であることを忘れ、なかには「虎の威を借る狐」になっている官僚たちの倫理は、どこに消えてしまったのでしょうか。倫理がない役人の行き着く先は、「おっぱい触っていい?」と女性記者に迫るセクハラ次官なのでしょう。

私は記者時代に、大蔵省(現財務省)を担当した時期がありました。酒席を共にした官僚もたくさんいましたが、こんないやしい(報道によれば、と注釈をつけておきます)役人は、さすがにいませんでした。ある次官の家に夜回りにいったら、書斎に通されました。次官は、読んでいた英国の雑誌「エコノミスト」を閉じると、私の質問に答えてくれました。特ダネなど出るわけもないのですが、尊敬できる人物で、のちに日銀総裁なりました。

役人の倫理性の劣化を言うなら、政治家の倫理性も問うべきでしょう。政治家の倫理性のなさなど言わずもがなかもしれませんが、加計問題で、「首相案件」という秘書官の言葉が記載された公文書が出てきても、「コメントする立場にない」と言い逃れる安倍首相の政治家としての倫理観の欠如は、驚くべきものですね。

秘書官が「記憶の限り、会っていない」と言わなければならないのは、加計学園の理事長から、「獣医学部をつくりたい、さらには今治市といった話は一切ございません」と、国会で答弁しているからでしょう。首相が知らないと断言しているのに、首相の分身である秘書官が愛媛県や今治市の役人と獣医学部の問題で面談したり、具体的な知恵を授けていたりしたら、首相の発言が虚偽だということになるからでしょう。

先日、米国のサスペンス小説を読んでいたら、「カエサルの妻」という言葉が出てきました。警察の幹部があやしげな人たちが出入りするパーティーには行かない、という説明のなかで、「カエサルの妻」みたいなものだから、という表現が出てきました。

カエサルは、妻の浮気が疑われる事件が起きるとすぐに妻と離縁したそうで、その理由を問われたカエサルは「カエサルの妻たるもの、そのような疑いすらかけられてはならない」と言ったとのこと。この故事から、李下に冠を正さず、と同じような意味で、欧米では、「カエサルの妻」という言葉が使われているようです。

安倍首相は、森友も加計も自分は指示していない、と言うのでしょうが、仮にそうだとしても、まさに首相を忖度して、官僚たちが公文書を改ざんし、その過程では自殺者まで出ていることに、反省はないのでしょうか。離婚せよ、と言っているのではなく、自らが職を離れるべき時期に来ていると思います。

塀の上のハンプティ・ダンプティは落ちてしまうのですが、わが国のハンプティ・ダンプティはどうでしょうか。政権の土台である官僚機構がボロボロに崩れているのを、私たちは見ているのですから、いつ転げ落ちてもおかしくはありません。

レスリングのパワハラは日本社会の問題

(「情報屋台」4月7日)
レスリング女子の伊調馨選手に対するパワハラ問題で、日本レスリング協会は同協会が設けた第三者委員会の聞き取り調査の結果、4つのパワハラ行為が認定されたと発表、これを受けて、パワハラを行った栄和人選手強化本部長が同日付で辞任しました。身内の調査でのパワハラ認定ですから、この問題の告発を受けた内閣府による調査では、もっと厳しいパワハラの認定が出てくるのではないでしょうか。

今回の事件は、3つの問題を提起していると思います。栄氏に見られるスポーツ指導のあり方、レスリング協会などのガバナンスの問題、そして、パワハラが蔓延する日本社会の問題です。

まず、スポーツ指導の問題です。内閣府に対してパワハラの告発が報じられたときに、体育系大学の教員だった私は、パワハラが事実であってもおかしくはないと思いました。スポーツ界に共通する問題であるからです。

スポーツの世界での体罰は、大阪市立桜宮高校のバスケ部員が顧問の教員による激しい体罰により自殺した事件や、女子柔道の日本代表選手が監督らによる暴力を告発した事件などで、容認されない行為ということになりました。しかし、日本のスポーツ界では、体罰以外の指導法が確立していないといっても過言ではない状況のなかで、体罰に代わる指導法は激しい暴言などに置き換わっているだけだと思います。

なぜ、そうした指導が許されるかと言えば、日本の監督などの指導者は、絶対権力者であり、選手は生活のすべてを指導者に捧げ、どんな理不尽な「指導」にも耐えなければならないという不文律がスポーツ界にあるからです。つまり、体罰や暴言、パワハラなどの現象をもぐらたたきにように是正しても、こうした問題はなくならないということです。コーチは選手の力を最大限に引き出す助言者という欧米流の指導法が日本のスポーツ界全体に浸透しない限り、同じ問題は繰り返されることになります。

欧米だって体罰もパワハラもある、ロシアや中国など国家スポーツの歴史を持つ国の指導法は欧米流とは違う、日本は体罰などの厳しい指導で根性を身に付けるから体力的に勝る欧米選手と戦える…。欧米流を評価すると、こうした反論がすぐに出てきますし、その通りだと思います。ただ、日本流の絶対権力の指導者による全人格的な指導によって、たしかに根性は付くかもしれませんが、指導者が描く以上のパフォーマンスを選手が発揮することは難しく、国際的な舞台で勝つことはできません。

いま、多くの競技で外国人がコーチなどのスタッフになっているかといえば、選手が創造性のある独創的な技を展開するには、選手の潜在的な力を引き出す欧米流が必要だからでしょう。日本は決められた技を正確にこなす「規定」には強いのですが、創造性を発揮する「フリー」には弱い体質を克服しようとすれば、欧米流に頼るしかないということです。

次にガバナンスの問題です。今回のパワハラの認定事例をみれば、伊調選手へのパワハラは、伊調選手が栄氏の指導から離れた2010年ごろから続きいていたことが明らかです。栄氏の伊調選手へのパワハラは、レスリング関係者なら多かれ少なかれ気づいていたはずですが、栄氏を監督するはずの大学、レスリング協会などは、みな知らないふりをしていたということでしょう。ガバナンス能力の欠如というよりは、パワハラの共犯者です。

オリンピックでメダルを取り続けてきた女子レスリングを指導してきた栄氏の実績から、何も言えなかったというのでしょうが、そういう監督を正しく指導、助言することこそガバナンスでしょう。現場で能力を発揮している人が暴走するのはよくあることで、それを統御できない役員は、役員失格です。今回の問題で言えば、伊調選手へのパワハラは、練習の機会を与えない、伊調選手の指導スタッフを追い出す、国際大会に出場させない、など、いずれも目に見える行為で、密室でのいじめ行為ではありません。栄氏よりも悪質なのは、それを放置した協会役員ということになると思います。

今回のパワハラを協会が取り上げることになったのは、協会の監督官庁である内閣府が出てきたからですが、内閣府がこの問題を取り上げざるを得なかったのは、伊調選手が国民栄誉賞の受賞者だったからでしょう。内閣が表彰した人間が被害に遭っている可能性があるということで、内閣府が協会に対応を指示したために、第三者委員会による調査まで進んだわけで、国民栄誉賞がなければ、内閣府も動くことはなく、協会も握りつぶしておしまいだったでしょう。スポーツ界は、ことのほか上下の関係がはっきりしている世界ですから、上(内閣府)からの指導がなければ、下からの告発は無視されるだけだったと思います。

最後に、日本社会の問題です。日本のスポーツ指導のあり方は、西欧の技術を学んできた日本のあり方と同じです。追い付け追い越せの追い付くまでは、日本流は有効でしたが、西欧の技術を学ぶばかりで、自ら創造する力が弱いでの、追い越すときに必要な独創性が足りません。独創性や創造性が問われる情報技術(IT)の時代になって、日本が欧米を追い越すことができないどころか、差が開いているのは、規定演技を学ぶことに熱心で、フリーで独創性を発揮できない教育に問題があるのは明らかです。

レスリング協会のガバナンスの欠如も日本社会の反映です。今回の告発問題で、「うちも同じようなもの」という思いをもったひとは多いと思います。過去の「実績」をもとに、横暴なふるまいを繰りかえすパワハラ上司はどこにでもいるはずですし、それでも「実績」があれば、まだましなほうかもしれません。「オレにさからって、この会社で生き残れるなんて思うな」という言葉で、人事権を行使するやからはどこにでもいます。伊調選手にとって気の毒だったのは、レスリング界が小さな世界で、練習場まで含めて栄氏の目の届かないところがなかったことです。

今回の問題をレスリングという小さな世界の特殊な事件と考えれば、栄氏の辞任で1件落着かもしれませんが、スポーツ界全体、さらには日本社会全体の問題だと考えれば、日本全体が「再発防止」に取り組まなければなりません。私たちの身の回りのどこにもあり、放置してはならない「Me Too」の問題なのです。

7年目の被災地

(「情報屋台」3月1日)
この3月11日で、東日本大震災から7年目となる。被災地の状況はどうなっているのか、一言でいえば、ばらばらだとしか言えないと思います。たとえば、大きな被害を受けた宮城県石巻市の中心街を歩けば、それなりのにぎわいと、それなりの閑散さが混在し、ほかの地方都市との違いを見つけるのは難しいでしょう。しかし、津波の直撃を受けた海岸近くに行けば、手つかずの空き地が広がるなかで、ぽつんと災害復興住宅が建っています。石巻の郡部といわれる牡鹿半島を周れば、防潮堤の建設で、ダンプカーがひっきりなしに行き来しているところもあります。

仮設住宅に住んでいた人々も、ほぼ災害復興住宅を含め、別の場所に移り、「避難民」ではなくなりましたが、元々のコミュニティーは崩れ、仮設でつくられたコミュニティーもなくなり、あらたな場所で孤立している人たちも多くなっています。地域コミュニティーという暮らしと心のよりどころを失った人たちの心とからだの健康をどう保つかは、これからの課題になっています。

先日、北上川の河口にあたる地域を訪ねたときに、そこに住む友人から、「おれの親父が出てくるから」と、ある本をいただきました。英国人のジャーナリスト、リチャード・ロイド・パリー氏が著した『津波の霊たち』(2018年1月発刊、濱野大道訳、早川書房)で、多くの児童や先生が津波で亡くなった大川小学校の遺族や、この地域に住む人々の話が中心になっていました。同じ遺族のなかでも、遺体が見つかった家族と見つからない家族、学校や市の責任を追及する家族とそれを避ける家族…。当初は「被災家族」という大きな糸にからまっていたのが、微妙にほぐれて、ばらばらになっていく様子が描かれています。そこに書かれている子どもを想う親の言葉を読んでいると、せつなくて、せつなくて、涙が止まりませんでした。

私たちは、震災直後に「東日本大震災こども未来基金」というNPOを立ち上げ、多くの個人や企業、団体からの寄付金を、震災で親をなくした子どもたちの学資支援につなげる活動を続けてきました。具体的には、小学生から高校生の児童・生徒に、高校を卒業するまで月2万円の学資支援を供与しています。これまでに支援した児童・生徒は約200人で、現在は114人の児童・生徒を支援、この3月には16人の生徒が高校を卒後することになっています。住所が仮設から復興住宅などに変わる家族がふえるにつれて、少しずつ復興しているのだなと実感しています。高校を卒業した人たちは、そのまま働いたり、大学や専門学校を卒業して働いたりしています。

先日、この春に専門学校を卒業する女性に会いました。幼稚園の教諭と介護福祉士の資格と両方を取ると聞いていたので、就職先は幼稚園を選ぶのかなと思っていたら、老人介護の福祉施設に就職するとのことでした。中学のときに両親や兄弟を亡くしているのですが、介護という選択をしたのは、思うところがあったのかなと想像しました。

この基金は、昨年、高齢で亡くなったふたりの女性から遺産をいただきましたので、学資支援だけでなく、被災地の子どもたちをケアしている団体への助成事業も始めました。そうした団体の代表のひとりに、最近の子どもたちの状況を尋ねたら、PTSDから不登校になったり、統合失調症になったり、という例もあると話していました。震災からもう何年もたっているのだから、という周囲からの圧力が不登校の引き金になっていると言います。たしかに、もう7年にもなるのだからと私たちは思います。しかしサイレンのような音を聞くとパニックに陥ったり、「小さな靴」といった歌詞の言葉で泣き出したり、幼いころに親に甘えられなかったため今頃になってだだをこねたり、といった震災起因の例がたくさんあるのだと語っていました。

私は、テイラー・アンダーソン記念基金というNPO活動にもかかわっています。石巻の英語助手として働いていて津波で亡くなったテイラー・アンダーソンさんの「米国と日本の懸け橋になりたい」という意志をつなごうと設立された団体で、テイラーさんの父親であるアンディ・アンダーソンさんが米国側の理事長になっています。この団体は、毎年、テイラーさんが好きだった読書を広げようと、石巻市内の学校に「テイラー文庫」という本棚と英語の本を寄贈していますが、今年は石巻市の雄勝小中学校に寄贈することになり、その寄贈式のため、アンディさんが2月末から3月初めにかけて来日しました。

いつもはテイラーさんの母であるジーン夫人が同行するのですが、今回はテイラーさんの弟であるジェフが同行しました。ジェフも、姉の意志をついで、奈良県で2年間、英語助手をして帰国したところです。アンディさんは、テイラーの意志を少しでも実現しようと、米国でのファンドレイジングに尽くしています。そのおかげもあって、テイラー基金は、テイラー文庫以外にも、日米の高校生の交換プログラムなど、いろいろな活動を続けています。

被災地の3月は、いろいろな思いが交錯する月です。私も、被災地のいま、といったタイトルで、被災地の現状を発信してきました。ことしは、「ばらばら」の状況が広がるなかで、一般的に被災地のいまを語る自信がなくなりましたので、自分の身の回りの話を書きました。最後に、「一言でいえば」を、もうひとつ加えるならば、「震災はまだ終わっていない」ということです。