日大アメフト事件の暗部

5月22日、日本記者クラブで行われた日大アメフト部選手の記者会見に出ました。関西学院との定期戦で、相手のQBに対して反則行為を行ったとして退場処分になった選手です。本人が話す前に、代理人の弁護士から、顔も名前も報道されてもいい、という申し出が本人からあったとの説明がありました。会見は相手選手に対する謝罪の一環なので、顔も名前を隠していては、謝罪にならない、という理由だったそうです。潔い態度に感心する一方で、「アメフトを続けていく権利はないと思っていますし、この先アメフトをやるつもりはありません」と語るまでに、選手を追い詰めた日大の監督やコーチなどスタッフの「体質」に怒りと悲しみを覚えました。

この選手が読み上げた「陳述書」を読み直してみると、相手のQBをつぶしてこい、という内田正人監督・井上奨コーチの指示は、事前に仕組まれていたのではないかという疑問が浮かんできました。

定期戦が行われたのは5月6日ですが、その3日前の練習で、監督・コーチから「やる気が足りない」という指摘を受けて、翌日(試合の2日前)には監督から、すでに日本代表として選抜されていた大学世界選手権に大会を辞退するように言われ、実戦練習も外されたそうです。さらに、試合前日には、実戦練習からはずされ、コーチからは、次のように言われたとあります。

「監督に、お前をどうしたら試合に出せるか聞いたら、相手のQBを1プレー目に潰せば出してやると言われた。『QBを潰しに行くんで僕を使ってください』と監督に言いに行け」

そして試合当日、試合のメンバー表に自分の名前がなかったので、監督に「相手のQBを潰しに行くんで使ってください」と伝えたところ、「やらなきゃ意味ないよ」と言われ、試合前の整列時には、コーチが近づいてきて「できませんでしたじゃ、すまされないぞ。わかっているな」と念を押された、とあります。

ヤクザの戦争では、相手のトップを狙うヒットマンを「鉄砲玉」と言うそうですが、監督・コーチのなかで、まさに鉄砲玉をだれにするか事前に相談したうえで、この選手に日本代表の辞退やスタメンはずしで退路を断たせて、反則行為に追い込んだように思えるのです。

会見場に選手が現れたときに、高校野球の選手のようだと感じました。選手の説明を聞いていて、その理由がわかりました。試合の前日、井上コーチから「関学との定期戦が無くなってもいいだろう」「相手のQBが怪我をして秋の試合に出られなかったらこっちの得だろう」などと言われたうえ、髪形を坊主にしてこいと指示されたというのです。スポーツマンシップに反する反則行為をさせるためのパワーハラスメントと言うしかありません。

試合後、監督は、スタメンと4年生の選手を集めて、「こいつのは自分がやらせた。こいつが成長してくれるならそれでいい。相手のことを考える必要はない」と言ったそうですが、その後、関学から抗議が起きると、「指導者による指導と選手の受け取り方に乖離が起きていたことが問題の本質」(日大アメフト部から関学アメフト部への回答書)として、選手の反則行為は監督・コーチの指示を誤解しただけだと切り捨ててしまいました。この日の会見後にも、日大は同様のコメントを出しました。

今回の事件の「本質」は、監督と選手との意思疎通の乖離ではなく、勝つためには手段を選ばないという「勝利至上主義」にあるのは明らかです。そして、勝利のためには、選手を犠牲にすることもいとわないのですから、この勝利の栄光は、選手ではなく、部という組織であり、それを代表する監督にあるのも明らかでしょう。

大学の部活動は、本来は部員の主体的なスポーツ活動で、それを助けるのが監督やコーチの役割だと思います。高校までの部活動は教育の一環ですから、位置づけは違うと思います。しかし、部活動を通じての人間形成は、中学・高校も大学も同じはずですが、日大のアメフト部は、どんな卑劣な手段を使ってでも勝てというのですから、人間形成の場とは、とてもいえません。

内田監督は、監督辞任を表明したときに、日大の常務理事については、「関係ない」として、続ける意向を示したようですが、内田監督の権力の源泉は、常務理事として、さまざまな権限を持っていることですから、監督を辞めても、内田体制が変わることはないでしょう。どこまで監督の指示を受けているのかわかりませんが、監督の意を汲んで、具体的な指示を出していたコーチの言葉を陳述書で読めば、その感を強くします。

今回の事件は、関学が問題視して、抗議という行動を起こしたことで、社会問題になりましたが、こうしたゆがんだ勝利至上主義は、日本の学校スポーツに蔓延しているように思えます。優秀な成績をあげれば、学校の宣伝になり、監督の名声も高まるので、監督は選手の人間形成や健康は犠牲にしても、勝利をめざすというのは、多くの学校にあてはまる現象に思えます。「わが内なる日大アメフト部」という反省は、どこであろうと部活の指導者には実践していただきたいことです。

それにしても、トップの指示がどこまであったのかわかりませんが、部下が不適正な行為をしでかし、それが明るみに出ると、トップは知らん顔という構図は、いまや日本の定番になってきましたね。

桐村英一郎著『熊野から海神の宮へ』を読む

私たち日本人は、どこから来たのか。いろいろな分野の研究者がこの問題に取り組んでいます。そのなかで、多くの研究者がそのキーワードしているのが「海人」の存在です。海を生活の基盤にした南方の人々がいろいろな文化や技術を携えて日本列島にわたってきたという仮説で、そうした人々の歴史を想像することは、私たちの好奇心というかロマンをかき立ててくれます。だから、こうした分野には全くのしろうとである私の書棚をみても、柳田國男『海上の道』、大林太良『海の道 海の民』、谷川健一『古代海人の世界』、梅原猛『海人と天皇』、永留久恵『海童と天童』といった本が並んでいます。

今回、紹介する桐村英一郎著『熊野から海神の宮へ』も、同じような問題意識を根底にして、和歌山県の海岸から数十キロも陸に入った紀の川の中流に、海神を祀る海(かい)神社があるのはなぜだろうか、という疑問を解き明かそうとした本です。海神社の祭神は豊玉彦命(とよたまひこのみこと)と国津姫命(くにつひめのみこと)で、もともと豊玉彦を祀っていたとされるのが熊野の盾が崎、国津姫を祀っていたとされるのが熊野の浦神で、著者は、こうした2神のゆかりの地などをめぐりながら、海の神が山に勧請された謎に迫っています。

古事記や日本書紀などの古代神話の世界では、豊玉彦は海神(ワタツミ)とされ、豊玉彦の娘である豊玉姫は、海彦(兄)・山彦(弟)の山彦と結ばれます。ギリシャ神話のポセイドンのような存在です。一方、国津姫ですが、国津は天津と対をなす神様で、国津は土着の神、天津は高天原の神ですから、土着の女神というわけで、筆者は、ここ浦上の国津姫は、北九州を本拠地とした宗像系海人族が奉じた宗像三女神と関係が深いと推論しています。

海彦・山彦神話も海人の系列とされていますから、豊玉彦も国津姫も海人系ということになり、「熊野から海神の宮へ」というテーマは、紀伊半島における海人の系譜を検証する学びの旅ということになります。この本は「神々はなぜ移動するのか」というのが副題で、祭神が勧請されて移る過程をたどる筆者の旅は、紀伊半島の観光案内でもあり、この本を片手に熊野灘を一望する海岸や、木の香りが漂う紀の川、古代ロマンの吉野を探索、そのついでに著者の住むという熊野市波田須町を訪れたくなります。

著者の桐村英一郎氏は、もともと朝日新聞の記者で、私の先輩でもあり、経済部や論説委員室では同僚として働いたこともあります。新聞社を退社後、奈良県明日香村に移り住み、古代史に「はまった」ようで、明日香の古代史をめぐる著書を3冊著したのち、三重県熊野市に移り、今度は熊野をめぐる本を、この本を含め4冊も著しています。もう元新聞記者というよりも古代史家のほうがふさわしくなってきました。

古代史にはまった原因は、日本人のアイデンティティーをさぐるということでしょうが、海人に関心を持ったのは、この本の最終章(エピローグ)が「黒潮の彼方への思慕」とあるように、私たちのなかに流れる海洋民族の血がうずいたということではないかと想像します。

私たちは、「日本人は農耕民族だから」という自己規定で、自分の主張はほどほどにして、組織の和を尊ぶ風潮を善しとしてきました。たしかに、水利が不可欠な稲作では、ムラをあげての共同作業が重要ですから、ムラの長に皆が従う組織原理が育ってきたのもうなずけます。しかし、それが重苦しく感じることもたくさんあります。現代でも、ムラの長の立場を忖度し、その言葉を重んじるあまり、行政官が見苦しい嘘を重ねている姿を見ていると、農耕民族のDNAが国民に染みついているように思えてきます。

しかし、私たちに流れている血は農耕民族の血だけではない。そのもとをたどれば、海洋民族の血が流れていることを再認識してはどうでしょうか。日本人のアイデンティティー探しは、農耕民族の呪縛からの脱出の旅でもあると思います。そんなことを想いながら、この本を読み終えました。

(情報屋台2018.05.16)

「大川小基準」の重要性

(「情報屋台」4月27日)
東日本大震災で74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明になった宮城県石巻市の大川小学校をめぐる裁判で、仙台高裁が26日、児童を引率・誘導していた教職員の責任だけではなく、津波に対する防災対策も不備だったとして、地裁判決を上回る賠償金の支払いを命じる判決を出しました。「想定外」だったとして、賠償責任を否定した石巻市と宮城県に対して、児童生徒を守るために、はるかに高いレベルの防災対策を求めた判決で、これからの防災を考えるうえで、画期的な判決だと思います。

大川小では、震災直後、いったん子どもたちは校庭に避難しました。先生たちは、待機している児童をどこに避難させるかで50分近く議論したのち、北上川堤防の高台に避難することを決めました。ところが、退避行動に移ったところで、北上川を逆流して堤防を越えた津波に全員がのみこまれ、ほとんどの児童と教職員が犠牲になったのです。

地裁判決は、津波が押し寄せる直前に教職員は、広報車のアナウンスなどで大津波の襲来を知っていたはずで、津波が来る北上川沿いに児童を誘導したのは不適切だったとして、教員の過失を認めましたが、防災対策については過失を認めませんでした。市教委は防災マニュアルで、それぞれの学校が災害時に避難する場所を決めておくように指示していましたが、大川小の校長は、堤防を越える浸水を想定した具体的な避難場所を決めていませんでした。地裁は、予測不能だったとして、そのことの過失は問いませんでしたが、高裁はそこに踏み込んで、校長は危機管理の義務を怠り、市教委もそれを指導できなかった過失を認めました。

現場の教員の責任だけを認めた地裁判決に対して、高裁判決は、一般よりも厳しい防災マニュアルの作成とその具体化についての責任を教育側に求めたもので、これこそが大川小の悲劇から学ぶべき教訓で、すべての教育関係者に認識してほしいことだと思います。

震災後、何度も大川小学校の遺跡というのか跡地を訪れる機会がありましたが、そのたびに、ここを全国のすべての教職員が訪れるべき「聖地」にしてほしいということを思いました。廃屋となった校舎の横に建てられた慰霊碑の前で黙とうしたあと、校庭で隣接した裏山や、子どもたちが避難した北上川の高台を眺めながら、自分がその場にいたら、子どもたちを守るために、どんな行動をしただろうかといつも考えるからです。

実際、プライベートで来たという教員のひとたちにも会ったことがあります。教育関係者なら見ておきたい場所でもあるのです。そっとしておいてほしい、と思う遺族や地元の人たちもたくさんいると思います。それでも、静かに訪れるべき場所として、大川小は存在し続ける必要があると私は思います。

これまでは裁判中でしたから、教育関係者が公的に訪れるのは、市教委に対する遠慮もあったと思います。ですから、早く裁判が決着して、市教委も防災教育の考える原点として、大川小を案内できるようになってほしいと思います。

市教委だけではなく教育関係者には、判決が一般よりも高い防災の責任を学校に求めたことに戸惑いもあると思います。しかし、「大川小基準」をもとに、これから全国の学校の防災マニュアルが再検討されることになれば、それは必ず起こる大規模災害のときに、子どもたちの生命を救うことにつながると思います。

遺族が裁判を起こした理由のひとつは、震災直後の学校で、何が起こったのかを知りたいということでした。現場にいた児童からは、「山さ逃げよう」と言った児童がいたとの証言がありますが、市は認めていませんし、裁判所も当時は子どもだった証人の発言を求めませんでした。原告が裁判で期待していたのは、教員でただひとり生き残った教員の証言でしたが、これはかないませんでした。また、原告は23人の児童の遺族ですから、訴訟に加わらなかった遺族も多く、遺族のなかでも、原告になるかどうかでわだかまりも残っていると思います。

「大川小問題」の解決には、ほど遠いのでしょうが、今回の判決はひとつの到達点だと思います。