サンマの不漁は外国船の「爆漁」が原因か

海道沖でのサンマ漁が始まりましたが、不漁を反映して魚価は大幅に上がっているようで、「庶民の魚であるサンマが買えなくなる」といったニュースも流れています。これまでは毎年20万トンから30万トンの水揚げがあったのに、おととしも昨年も11万トン程度で、ことしも昨年よりも低水準が見込まれるとあっては、サンマが「高値の花」になるのは明らかでしょう。しかし、その原因として煽情的に取り上げられているのが、中国などの大型外国船が日本列島に近づく前のサンマを獲ってしまう、という「先取り」なのですが、本当でしょうか。

先日も、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」を見ていたら、日本沿岸に回遊してくる前のサンマを大型の台湾船や中国船が先取りしてしまうので、日本の漁船が漁獲できない、という図が描かれていました。

たしかに、この図を見れば、日本近海に着く前に外国船が公海上で漁獲してしまう、ということになり、視聴者は、公海上の台湾船や中国船を規制せよ、という思いにかられます。しかし、サンマの生活史は、それほど単純ではありません。水産庁が「サンマの生活史と回遊」という資料(平成22年度水産白書)で示した生活史は下図の通りで、サンマは太平洋全域で回遊していて、日本列島に近づくサンマは、そのうちの一部ということがわかります。

実は、このテレビ番組でも、解説役で登場していた時事通信の記者が再三、説明画面の前までわざわざ移動してきて、全部が日本沿岸に回遊するのではなく、もっと手前で回遊するものもあると、水産庁の説明画面と同じような解説をしていましたが、キャスターもコメンテーターも、「外国船が先取り」というストーリーに沿って、このコーナーを展開していました。海水温の変化ではモーニングショーが取り上げる話題にならないので、何が何でも台湾・中国船の「爆漁」が悪いという印象を視聴者に植え付けたいのでしょうね。

7月初旬、日本は、中国や台湾、韓国、ロシアなどが参加する北太平洋漁業委員会で、サンマ問題を取り上げ、サンマ漁獲量の上限を国ごとに振り分ける漁獲枠を提案しています。これに対して、中国が規制の必要はないと拒否したので、日本案は採用されませんでした。日本案によると、日本の漁獲枠は24.2万トン、台湾は19万トン、ロシアは6.1万トン、中国は4.6万トンなどとなっていました。これでは、新興勢力の中国は納得できないでしょうから、自国の配分枠の拡大を求める前に、資源不足かどうかはっきりしない、という論理で対抗したのでしょう。中国は自国の既得権(実績)をもっとふやしたところで、配分枠の議論に乗ろうという作戦でしょう。

また、例のモーニングショーに戻ると、日本は深刻な不漁を防ぐために、漁獲制限を提案したのに、中国が拒否したという説明をしていました。漁業委員会の流れをみれば、そうかもしれませんが、日本は本当に資源不足を心配しているのでしょうか。もし、そうなら、2年連続11万トンしか漁獲できなかったのに、24万トンの漁獲枠を提案するのは矛盾しています。資源は問題ないが、日本近海に回遊する群れが「先取り」されてしまうというのなら、漁獲量の制限よりも、日本近海に回遊しない群れを漁獲してもらうように、漁獲地域の規制を提案すべきでしょう。

資源不足が明らかなら、国際的な漁獲制限は当然です。サンマについて、中国以外の多くの国は日本案に賛成したそうですから、サンマの資源不足は各国とも認識し始めているということでしょう。それなら、日本は率先して、自国の漁獲枠の大幅な削減案を提出すべきでしょう。そうでなければ、参加国全体の合意を得るのは難しいと思います。

もう一度、整理してみましょう。サンマの漁獲量が減っているのは、海水温の変化により、日本近海に回遊してくる群れが少なくなっていることが第1の原因だと思います。水揚げされたサンマの型が小さい、脂が乗っていない、などと言われるのは、これを裏付けています。海の変化がなければ、先取りで数は減っても、もっと良質のサンマが取れるはずです。

次に、台湾や中国などの新興勢力がサンマ漁を拡大していることが、日本漁船の不漁に影響していることもあるのでしょう。しかし、その論理で新興勢力を説得するには、「先取り」がどのくらいあるのか、日本近海に回遊しない魚群は、どのあたりの海域にいるのかなどについて、国際的な調査を進める必要があると思います。

最後に、台湾や中国が悪い、と他国を非難するのは簡単ですが、日本が国際的にどう見られているかを知ることも大事です。日本の乱獲は過去のもので、いまは資源保護に傾いている、と胸を張れるでしょうか。絶滅が心配されるほどの水準まで資源量が減っているクロマグロについては、もっと大幅な規制が必要で、少なくとも漁獲量の多い巻き網についての規制はもっと強化すべきだと思います。しかし、クロマグロ規制の実態は、ほかの国の漁獲がふえていることも含め、資源保護に十分だとはいえません。メディアがもてはやす「大間のマグロ」の物語の陰で、クロマグロ漁全体では、どれだけの幼魚が漁獲されているのか、資源全体がどうなっているのか、日本の旺盛なマグロ消費をどう考えるかなど、日本が取り組まなければならない課題はたくさんあります。

(冒頭のサンマ漁の写真は、筆者が宮城県沖のサンマ漁を取材したときのものです)

杉本宏著『ターゲテッド・キリング』を読む

現代書館から刊行された本書の題名である『ターゲッテッド・キリング』とは、聞きなれない言葉ですが、「国家が安全保障上の脅威と見なす特定の人物を選別し、政府機関員が上層部の承認を得て、刑事上の手続きを経ないで実行する故意の殺害」だそうで、この本では、「標的殺害」という訳語をあてています。「安全保障上の脅威と見なす人物」とは、その国家と敵対する国家やテロ組織などの幹部ということでしょう。

著者の杉本宏さんは、2001年9月11日に米国が「同時多発テロ」の攻撃を受けたときに、ワシントン駐在の新聞記者で、文字通り、昼夜を分かたず、この事件を報道し続けた人です。杉本さんは、その後も国家対テロ組織の「戦争」のありようを取材し、テロ組織や事件の拡散とともに、通信や映像の傍受から無人機による攻撃まで情報・軍事技術の進歩が現代の戦争を大きく変容させ、「標的殺害」の範囲を拡大させている実態をこの本にまとめました。米国の「標的殺害」に焦点をあて、その理論から実践まで、丁寧に論じた本書は、現代の安全保障を語るときに、それが観念論に終わらないための必読の本だといえます。

さて、2011年5月、その10年前に起きた9・11テロの首謀者とされたビンラディンは、米軍の作戦によって、パキスタンで殺害されます。その作戦を遂行したのは、米国のどの組織だったでしょうか。このニュースを覚えている人なら、CIAの情報で、米軍の特殊部隊が実行した、と答えるでしょう。たしかにその通りですが、筆者は、より正確な答えを用意しています。

「(ビンラディン殺害計画を実行した部隊の)隊員たちは、米軍の軍事作戦として任務を全うしたのではない。一時的に米軍から文民機関であるCIAへ移籍出向(転籍)し、CIA要員として出向先の準軍事作戦に従事したのだ。じじつ、パネッタ(CIA)長官がCIA本部(ワシントン)で作戦を最後まで統括し、下位隷属する形で米軍のマクレーブン統合特殊作戦軍(JSDC)司令官がアフガニスタンの基地から現場を『指揮』した」

なぜ、そんなめんどうな措置をしたのか。筆者は、「米軍主導の作戦となると、戦闘能力の点では優れていても、不測の事態に陥った場合、米国政府の関与を否認しづらい」という米政府内の事情を解説、「カメレオンのような変幻自在の戦法」と評しています。成功すれば正規の軍事行動、失敗すればCIAが勝手にやったこと、というのは、都合の良い便法に思えます。

しかし、著者は、こうした措置のなかに、法治国家でもある民主主義国家の「苦悩」があると見ています。なぜなら、「『法の支配』が貫徹している民主主義国家において、権力側に許される合法で正当な国家殺害は、基本的には法の適正手続きを経たうえでの死刑判決と、戦争での敵兵殺害に限られる」からです。

ビンラディン殺害作戦は、戦争と暗殺の間のグレーゾーンにあったため、計画を承認したオバマ大統領(当時)は、CIAによる非公然型の殺害として、作戦を遂行させたというのです。失敗したときのリスクを考えれば、非公然型のほうがいいのかもしれませんが、もし、捕虜になった場合は、国際法で認められた兵士ではありませんから、パキスタンの国内法で殺人犯として裁かれるおそれもあったのです。そういうきわどい世界に「標的殺害」はあるということです。

本書で著者が着目した事例に、ビンラディン殺害作戦とともに、無人機攻撃があります。この本によると、米軍の無人航空機は2002年度に204機だったのが、2017年度には9347機まで増加しています。無人機攻撃は、軍事作戦の手立てなので、当然、軍が指揮していると思っていましたが、本書によると、CIAが指揮している事例が多いようです。

無人機攻撃の利点は、味方の損失(リスク)がゼロで、費用(コスト)も安いということです。しかし、「リスクとコストの負担を回避すると、国内政治上の摩擦が減るため、『戦争継続』に弾みがつき、果てしない『戦争』が常態化し、中長期的には米国の安全を損なうリスクも伴う」というパラドクスを著者は指摘しています。また、無人機の発展は、自律型ロボット兵器の開発につながるという指摘もありました。

米映画『ターミネーター』は、人間対機械の未来戦争がテーマでしたが、人工知能(AI)の発展にあわせて、軍事兵器にAIを搭載させた自律型兵器について、国際的な規制を早急にかけないと、核兵器のように先行した国家の既得権になってしまうおそれもあります。本書は、そういう問題も提起していると思いました。

本書で展開されている「標的殺害」の正当性や合法性をめぐる米国内の論議を読みながら、日本とは違うと思いました。日本では、「超法規的な措置」というと、それもひとつの法的な措置のように受け取られ、議論はそこで終わってしまうところがあるからです。

そこは民主主義を標榜する米国らしさでもあるのですが、気になるのはトランプ政権の米国です。オバマ政権は、標的殺害の対象をテロ組織の指導者や幹部に限定し、大統領がその最終承認をすることにしていましたが、トランプ政権は、標的の範囲を広げるとともに、権限もCIAや米軍に移譲することを検討しているようだ、と書かれています。こうした標的殺害の日常化がいま以上に進めば、紛争地域における闇討ちに利用されたり、最新兵器を駆使した兵士の見えない戦争に対する貧者側の対抗手段としての無差別テロを増大させたりする不安を感じます。

多くのひとに読んでほしい本ですが、北朝鮮の金正恩委員長にとっても必読の本といえそうです。「斬首作戦」を恐れる金委員長にとって、自分を狙うどんな攻撃方法があるのかを学ぶ参考になるでしょうし、トランプと通じていればなんとかなる、などと米国を見くびっていると、痛い目に遭うということも知っておくべきでしょう。

(2018.7.14 「情報屋台」)

文科省事件を生む補助金の体質

文科省の官僚による、なんとも哀しい事件が起きました。息子を裏口入学させる代わりに、その大学に補助金を付けるように便宜をはかった、という「受託収賄」の疑いで、文科省の現役の局長が東京地検特捜部に逮捕されたのです。事実だとすれば、という注釈が付きますが、財務次官によるセクハラ事件と同じように、エリート官僚といわれる人たちの品性のなさには言葉を失います。

官僚にも品性の立派な人たちはたくさんいると思います。しかし、自分の持つ権力を私欲に利用する官僚が「出世コース」を歩んでいることに、霞が関の闇が深いことを感じます。ホステス代わりにテレビ局の女性記者を呼ぶ次官がいるのなら、息子のコネ入学を監督先の大学に頼む局長がいても不思議ではありません。日本の経済的な没落は、国全体のGDPでも、1人当たりのGDPでも明らかですが、このところの役人のふるまいを見ていると、国をあげて三等国への転落は速まっているようです。

森友・加計問題で、役人たちが首相夫人や官邸の意向を「忖度」することに汲々となっている姿が浮き彫りになりました。こうした“政治案件”で公務員の倫理がないがしろにされている空気のなかでは、“個人案件”でも、倫理が踏みにじられていくということでしょう。まじめに仕事をするのがばかばかしい空気が霞が関には流れているのではないでしょうか。

そういえば、財務省が公文書を改ざんした問題で、元局長が国会で証人喚問されたときに、「刑事訴追を受けるおそれがある」という言葉を連発しているのに違和感を覚えました。そのことが証言を拒否できる理由になることは承知していますが、刑事訴追を受けるのは個人であって、いわば私益です。国家のために働いている人の模範となるべき元局長が、刑事訴追を受けたくないという自分の私益のために、公的な義務である証言を拒むのに、恥じらいを持たない姿に驚いたのです。

役所を守るためか、政治家を守るためか、知りませんが、証言を拒否するなら、証言法違反の罪を自ら引き受けることが役人道=吏道でしょう。かれらに共通していえることは、私益と省益はあるのかもしれませんが、国民益=国益は、まったく考えていないということです。国の政策をつかさどる人たちが国民の利益を考えていないのですから、その国家が衰退するのは当然です。息子のために便宜をはかる役人は、自分の天下り先のためなら、その何倍もの税金を使って、便宜をはかるでしょう。

ところで、息子の裏口入学に使われたという「私立大学研究ブランディング事業」は、いかにも日本的な補助金事業で、大学のブランディングを高める事業とは到底思えません。文科省の白書には、「学長のリーダーシップの下、大学の特色ある研究を基軸として、全学的な独自色を大きく打ち出す取組を行う私立大学に対して重点的に支援する『私立大学研究ブランディング事業』を新たに創設しました」とあります。しかし、大学のブランドは自力でつくるのが当たりまえで、文科省が補助金のエサをぶら下げなければ、ブランドが築けないという発想というか仕組み自体がおかしいと思わないのでしょうか。

少子化が進むなかで大学がこれまで以上に特色を出していかなければならないのは当然で、まさにブランディングは必要でしょう。そのためにはコストがかかるのも当然ですが、そのための事業を文科省が選定するという発想は、文科省の気に入るような大学になれと、文科省が大学を誘導していることにほかなりません。もし、文科省が大学のブランディングを助けようというのなら、たとえば、期間を区切って、大学の学生数に応じて、一律に私学助成金を上乗せして、特色ある大学になってくださいと激励してはどうですか。ブランディングできるかどうかは、大学の努力次第で、できなかった大学は自然淘汰されていくだけです。

「全学的な独自色を大きく打ち出す」とありますが、こうした抽象的な目標を掲げれば、役人の裁量が働く余地がたっぷりでてきます。文科省が公表した選定された大学名と事業(下記のリンク参照)をみると、たしかに個別の研究費では対応できないような内容のものが多いように見えますが、中核的な研究に、全学的な取り組みになるようなトッピングしただけ、という印象を受ける大学も散見されます。

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助成金の本質かもしれませんが、この事業は、大学からすれば、どんな事業が大学の質を高めるかという「WHAT」よりも、どうすれば選定されるかという「HOW」に力を入れそうなものになっています。今回の事件でも、局長自ら、申請書の書き方を指南したという話も流れていますし、コンサルタント的な役割を果たしたとみられる会社役員が逮捕されています。「HOW」が重要な補助金には、コンサルタント的な人々が暗躍したり、文科省から大学に天下りした人々が活躍したりする余地が大きくなります。「文科省の助成事業を獲得するなら、コンサルかOBを雇え」とは、よく聞かれる言葉です。

大学経営では、「2018年問題」という言葉があり、大学に入学する18歳人口が2018年から減少に転じ、大学経営が厳しくなるという課題を抱えています。文科省が特色ある大学づくりや統廃合に躍起になるのは、こうした理由からですが、生き残り策を考えるのは大学にゆだねるべきで、役所が口をはさめば、役人の頭のなかでの「国際競争力」や「ブランド」のある大学しか育ちません。こうした仕組みが機能するなら、日本には世界ブランドの大学がもっとふえていたはずです。

今回の事件を捜査するのは検察で、その結果、個人の犯罪が明らかになると期待します。しかし、この助成事業をめぐって、ほかの大学には政治家の介入がなかったのか、文科省の天下りを含む介入はなかったのか、コンサルタントが暗躍したことはなかったのか、さらには、助成事業の問題についても追及するのは、メディアの領分でもあると思います。

(2018.7.8 「情報屋台」)