東北における戊辰戦争の舞台となった福島県白河市の小峰城や稲荷山を見たのち、戊辰戦争150年のツアーは、会津若松市河東町にある「会津藩校日新館」(写真)を訪ねました。
虚言(うそ)はなりませぬ
会津藩の藩校だった日新館は、1674年に藩主、保科正経が設けた「講所」が起源で、1803年になって、会津若松城の隣に「日新館」として生まれ変わり、すべての藩士の子弟が論語から兵学や天文学まで学ぶ総合教育機関になりました。戊辰戦争で校舎が焼失、藩校もなくなりましたが、1987年に、教育・観光施設の「会津藩校日新館」として現在の場所に再現されました。約12万平米の広大な敷地と、いろいろな校舎群とともに、水泳を習う「水練水馬池」まで再現されているのに驚きました。早速、館長の宗像精さん(写真)から日新館と会津精神について話をうかがいました。
藩士の子どもたちは、10人前後で「什」(じゅう)と呼ぶ集団をつくっていたそうで、それぞれ「什の掟(おきて)」(写真)を設け、日々の反省にこれを唱えていたといいます。会津精神の原点というわけで、日新館には、下記の7か条が掲げられていました。そのなかには、年長者の言うことに背くな、戸外で婦人と言葉を交えるな、といった封建道徳も多く、現代にはふさわしくないというので、子どもたちには、虚言(うそ)を言うな、卑怯な振る舞いをするな、弱い者をいじめるな、の3か条を主に説いているそうです。
宗像さんは、もはや子どもではない私たちのツアーに「虚言」の条文を説明するときには、「いまの政治家にも言いたい」と述べていました。たしかに、今の安倍政権こそ学ぶべき掟で、「ならぬことはならぬものです」と言いたくなりました。
「窮すれば通ず」ではない
宗像さんの講和でなるほどと思ったのは、会津には「変」と「通」が足りなかったという話でした。時代の変化に対応して、自分自身を変化させれば、そこから活路も通じるのに、それができなかったために、「朝敵」の汚名を着せられ、戊辰戦争で敗北を喫することになった、というのです。
歴史学者の磯田道史は、「福島民友」の戊辰戦争150年企画のインタビューで、「変通」について語っています。それによると、この言葉は、幕末によく使われたもので、西洋と戦うときに旧式の武器では勝てないとなったときに、「変通して西洋武器で戦おう」というふうに使ったというのです。磯田さんは、会津藩について、このなかで次のように語っています。
「会津藩は江戸中後期には変通しましたが、幕末期にはうまく変通できなかった。要するに、一時は日本最高の教育をやったのに、時代に遅れて、気の毒な目に遭うわけです。不利益なことをさせられて。それは『変通』が乏しい」
変通の語源は、易経の「窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し」から来ているのですが、日本では「窮すれば通ず」ということわざで、「行き詰まって困り切ると、かえって活路が見出せる」(広辞苑)という意味で使われています。磯田さんは、そこに日本人の甘さを見ているようで、次のように指摘しています。
「日本人は、どこか甘い。『変ずれば』という一番肝心な部分をすっ飛ばして、窮したら何をしなくても自然に道が開ける。神風が吹くと考える。日本は森の国で暖かい。自然は豊穣で、人も、おっとりしている。一方、大陸は厳しい。そうはいきません。何か育んでくれる感じを日本は持っていて、変わらなくても生きていけるといった甘い考えを持ちやすい。困ったときには、変わることができる知恵と勇気です」
戊辰戦争と太平洋戦争
「変通」ができなかった会津藩の悲劇の構造は、日本人全体にも通じるというわけです。宗像さんの話は示唆に富んでいて、会津の話が日本全体の話につながっていくのですが、もうひとつだけ、宗像さんの話で印象に残ったことがあります。
それは、会津藩を「朝敵」「賊軍」にした薩摩・長州のやり方について、「欺瞞」「歪曲」「隠匿」「抹殺」といった言葉(写真)を並べたうえで、これが多くの国民に多大な犠牲をもたらした第2次大戦の敗戦につながるという説明でした。戊辰戦争で敗北した東北の人々にとって、明治維新は薩長による倒幕のクーデターであり、「近代国家の誕生」と言われると、釈然としないところがあります。
とはいえ、明治以降の日本が近代国家として西欧諸国に追いつくことができたのも事実ですから、明治維新を全否定はできません。そんな東北のわだかまりの発露が、戊辰戦争の延長線上に太平洋戦争の敗北があるという見方につながっているように思えますが、その一方で、太平洋戦争に向かう日本の慢心の原点を日露戦争だけではなく、戊辰戦争にみることもできると思います。
歴史家の半藤一利さんは、前掲の「福島民友」の戊辰戦争企画のインタビューで、「日本という国は、軍事国家として明治13年(1880)ごろスタートし、政治、経済、外交の面での近代国家としては明治22年(1889)ぐらいから出発した」と語っています。立憲君主制を定めた明治憲法が発布された1889年を近代国家としての日本の出発点だとすると、それ以前の1880年には、天皇直属の参謀本部が設置され、一般の国務から独立した「統帥権」ができているというのです。
その統帥権を盾にして、陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥というすみわけをしながら、太平洋戦争までの突き進んできたことになります。半藤さんの次のような言葉は、宗像さんの思いを補強しているように思えます。
「昭和に入り戦争に突入していくまでの国家の在り方というのは、まさに薩長的だった。(明治維新というクーデターと同じように)天皇を敬い奉るような顔をして、本当のことは教えず、勝手に自分たちが戦争をやった。そして進んでいったら、止まらなくなった」
こうした軍部の暴走を最後に止めたのが終戦時の首相だった鈴木貫太郎(1868~1948)らの「賊軍派」だというのが半藤さんの見立てで、鈴木は、関宿藩士(千葉県)の長男で、関宿藩は、幕末には彰義隊(旧幕府軍)に加わる者が多く、藩は明治政府から石高を削減されている。その意味では、「賊軍派」ということになるのでしょう。前回、紹介した南部藩士の子である原敬も、政党政治を掲げた政友会で、軍部とは距離を置こうとした政党の流れといえるかもしれません。
幕府の御家人出身で、戊辰戦争の最後となった函館戦争で、旧幕府側の首領となった榎本武揚は、維新後、明治政府に取り立てられ、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任しました。まさに賊軍派ですが、榎本が推進したのは殖産興業であり、南方やメキシコへの移民計画を含め、中国大陸への進出をはかろうとする「北進論」とは異なっていました。
私は『榎本武揚 近代日本の万能人』(藤原書店)の編著者として、「序」のなかで次のように榎本を評しましたが、あらためて、「賊軍派」という視点から榎本をみると、「薩長閥」の率いた日本との対比がはっきりと見えてくるような気がします。
「西欧列強と同じようになりたいという野望から朝鮮半島や中国大陸への『北進』論が芽生えるなかで、榎本は西欧列強と正面から対峙することなく、軍事ではなく交易によって資源を確保していく『南進』の発想を示した。同時代の国権論者の水準を超えた榎本の発送の延長上には、第二次大戦に至る日本の道行きとは異なる生き方の可能性があった」
仲良くしても仲直りはできない
日新館の宗像館長は、昨年末、山口県萩市で「戊辰150年の会津人の思い」と題して講演したときに、「『150年たったから仲直りを』は、歴史の事実をご破算にするもの。真相をちゃんと残し、交流を深めるほうが結びつきは深くなる」と語ったそうです。今回のツアーでも、「仲よくはできるが、このままでは、仲直りはできない」と語っていました。
宗像さんに限らず、いまだに戊辰戦争にこだわる会津人に対しては「がんこ者」だという評価がなされています。しかし、江戸開城以降の新政府軍による東北攻めの理不尽さや、戊辰戦争以降の薩長の思い上がりを思い起こせば、薩長側の戊辰戦争に対する反省がないままに、仲直りはできない、という会津のがんこさこそ必要で、太平洋戦争の敗戦に対して、「一億総ざんげ」という言葉に象徴される無責任さを認めることになってしまうように思いました。
日新館では、福島県内の小学生のグループが会津精神を学んでいました(写真)。大きな声で、「什の掟」を読む子どもたちの声を聞きながら、教科書には記されていない敗者の歴史を学ぶことも大事だと思いました。戊辰150年のツアーはまだ続きます。
(2018.9.20 「情報屋台」)